「困難な教育」読みました

 

◇気づいたこと・感じたことをざざっとまとめてみました。

 

第1章「教育を捉え直す」

「何でもできる」という環境はとても不自由であり、多くの人はその可能性を引き出せないままに終わってしまいます。(P.28)

この言葉を読んで思い出したのが、今年も開催している「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」(以下、RIJF)でした。

rijfes.jp

数年前に参加したときに、総合プロデューサーの渋谷陽一さんが、

「今年もステージがいくつも用意されているので、自由に聴きたいところや見たいところを選べます。しかし見たいところの時間が重なっていて、どちらか一つのステージしか見ることができないこともあると思います。そういう『自由という名の不自由』を楽しんでください。」のようなことを仰っていました。 (何年も前に聞いたので記憶が曖昧なので正確でないことを承知してください)

 

RIJFでは、時間帯によって、「ものすごく見たい!聴きたい!」という時間があることもあります。そういう時間帯にご飯食べたり、休憩したりするのですが、そうした時間に「ちょっと見にいってみよう…」と見たアーティストがものすごく良くて、興奮したり、一気にファンになったりすることもあります。自分の趣味や興味関心の幅が一気に広がる場や時間でもあるのがこのRIJFなのでした(最近は行けてないので過去形)。

 

子どもの可能性を広げることも同じようなものと感じました。

 

学校である意味「やらされている」もの・ことから興味が広がったり、関心をもったりすることもあり、ひいてはそれが進路や将来に結びつくこともあります。

 

また

一つの穴だけを掘り続けるなんて芸当は多くの人にはできません。実際は、いろんな穴を掘っていく過程で、穴と穴が「繋がって」、そこから「深く」なるというイメージではないでしょうか。(P.28-29)

この文章から私は、世界遺産で有名なトルコの「カッパドキア」をイメージしました。

 

カッパドキア」は岩肌にいくつもの穴があいており、その中で約1万人もの人が生活していたとされる場所です。しかもまだ全容は解明しきれていなく、まだ見つかっていない部屋や空間もあるとされています。

 

まだ見つかっていない部屋や空間は、子ども自身の可能性であり、興味の種でもあります。

 

子ども自身が、たくさんの穴を掘ったり、覗いたりしていく中で「学び方」を学ぶことができれば学校教育として一つの仕事を果たしたといえるような気がします。

 

第2章「教育を疑ってみる」

教育に科学の考え方がどんどん入ってくることで、子どもたちは数値化され分析されていきます。そして、それらによって子どもたちの可能性はどんどん限定されていきます。(P.112)

これって、就職活動で自己分析をしていくけど、結局自分の「良さ」や「強み」が分からず、なんとか過去の経験を進路に結びつけて話すしかなくなることにもつながっているように感じます。

数値や実績(資格なども含めて)などは、自分もそうだけど、相手にも伝わりやすくとても分かりやすいです。

どうしても試験しなくてはいけない人数が多いと、企業としてもその「分かりやすさ」を頼らざるおえない部分もありますし、合格基準(内定基準)もその「分かりやすさ」を例にしたほうが誰もが納得しやすいですしね。(ここは第3章の「ホームページ、アンケート、評定……、『わかりやすさ』の罠」P.135とつながるところです。)

 

第3章「教師としてどうあるべきか」

管理職のするべき仕事は「管理する」より「責任をとる」なのではないでしょうか。(P.157)

これはいつも下っ端の教諭から見て感じています。過去、「私が責任をとるから自信をもってやてみなさい!」と言葉に出して言ってもらった記憶は皆無です。

 

昔、一緒に働いた先輩に「今までたくさんの校長を見てきたけど、『クソ』か『マシ』しかいなかったよ」と言われたことがあります。

 

この先輩の言い方は悪いにせよ、私自身も同じように感じる十数年間です。

 

もちろん今後すばらしい校長に会うであろう可能性ももちろんあるので、管理職(特に校長先生)全般に対して一方的に批判がしたいわけではありません。私が気づいていないであろうところで一生懸命働いていたり、私の知らないところでフォローをしてくれていたりしていたこともおそらくあったのだと思います。私自身未熟故に気づかなかったこともたくさんあるでしょう。

 

管理職のために働いているわけでないので、管理職ばかりを見て働くのではなく、クラスや学校、そして地域の子どもを見て働いていくことがいいのではないでしょうか。

 

まあ少なくとも管理職の方には、せめて教諭の「仲間」と思わせてくれればいいのかと思います。そこすら希薄なことも多いので。

 

いろいろな先生が、いろいろな教育実践をする(P.163)

これでいいんですよね。

 

ぱっと思いついたのは、学校も保護者もそして地域も「おおらか」になるのがいいのではないかということです。

 

とりわけどうしても「事件」が起こると反動で一気に厳しくなるのはしょうがないのですが、そうした法律違反・人権侵害はもちろん論外です。

 

色んな先生や保護者、地域の人がいることで、子ども自身の成長に寄与していきます。

 

子どもの「個性」を尊重するのであれば、先生も「個性」を尊重してもらい、それを「おおらか」に保護者や地域に見てもらう。

 

そうした「おおらか」さがあるといいのかなと思いました。完全な思いつきですけどね。

 

 

総括してみるに、「葛藤」や「迷い」を常に残して、学ぶことが大切ってことなのかなと感じました。私自身、迷ったり悩んでばかりで、いつも悶々としていますが。

 

そこを迷わないで「こうだ!」と決めつけて、「これがいい教育なんだ」「この実践がすばらしいんだ」ということで推し進めると、子どもの実態に合わないときに一気に破綻がきます。

 

「葛藤」し、「迷い」ながら子どもと一緒に考えることが大切だと感じました。

 

一言でいうと、「反省的実践家」(ドナルド・ショーン)を意識しましょうってことかな?

 

 

ざざっとまとめすぎて、まとめになっていませんね。

 

完全に自分用メモになっているので、駄文失礼しました。